中東日記 7

miyatan2007-10-22

 会社で新たに導入する新データベースソフト講習会に出席。梅田の外れ、というか隣の福島駅のほうが近いくらいの場所。谷町線東梅田駅から、25分位歩いた気がした。遠かった。新梅田シティから歩いて五、六分くらいの場所。梅田スカイビル初めて近くで見た。ちょっとバブリーな、奇抜なデザイン。1993年完成らしい。クリスマスツリーの設置工事をしていた。隣は、ウェスティン大阪、高級ホテル。JR京都駅と同じ著名な建築家・原広司氏の作品らしく、彼の著作は遠い昔大学入試の共通一次かなんかの国語の問題で出たらしく、その息子が私の高校の先輩に当たるらしい、と昔先生が言っていた記憶がある。なんかそういう、人の縁とかって、遠い昔に聞いた事でも不思議なくらい覚えている気がする。
 直行直帰でいいと言われているので気が楽で、最近ひたすら事務室に籠もりがちな仕事なので、いい気分転換である一方で、実質部門の代表で出席していて、参加費が高いので他に出席者を出すわけにも行かず、恐らく場合によっては私が講師になって使い方を伝授しなければならなくなるので、それがプレッシャーでもある。なんか、段々自分の担当業務が、当初どころか一年位前には全く予想すらしていなかった方向に行っていて、自分でも驚いている。

 なお連載中の中東日記ですが、本日分に関しては、以前のブログに一部清書として手を加えたものなので、予めご了承ください。

9月29日(土)
 眠い目をこすりながら起きて、バスに乗る。バスの中では夢心地。とりあえず、マンスールホテルに行くという日本人とセルビスをシェアして、一緒に行く。さすがセルビル、かなりいい加減。目的地の手前からかなり歩かされた。とりあえず、キングフセインモスクのミナレットが目印になったので、まだよかったが。マンスールホテルにてまた旅の友と再会。でも、いないはずの友が一人…。普通に挨拶を交わしたけど、そういえばなんで…。どうも、そのYさんは昨日飛行機に乗り遅れたらしい。クリフホテルに行く。サーマル氏と再会。頼んでおいた死海の石鹸と泥パックを受け取る。その日、29日がクリフホテル卒業の日の事。翌日からは、通りを挟んで反対側にあるマンスールホテル(コーダホテル)、に念願かなって移籍との事。晴れて卒業姿を見ることができた。コーダホテルの由来は、何を隠そうあのイラクで殺害された香田証生氏に由来している。直接その話は本人とはしなかったが、宿においてある情報ノートを読む限り、サーメル氏は自分があの時本当に必死になって、香田氏のバクダッド行きを止めていたら、彼は命を落とさずに済んだのに、と言う相当後悔の念に苦しんでいたと言う。元々サーマル氏は親切な人で、旅人の味方と数多くのバックパッカーに愛されてきたが、特に日本人に対して優しいのは、香田氏に対する懺悔の気持ちがあるからではなかろうか、と言われている。

 お土産を買い漁る。ずっと欲しかった、瓶詰めの砂細工。一番小さいものを買ったが、1ディナールと意外と安かった。その他にも、置物やら小物やら。途中までタクシーに乗って、空港行きのバスターミナルへ。そこからバスに乗る。そのバスが遅いこと。地元のローカルバスも兼ねているらしく、交差点という交差点で人の乗り降りがある。国際線乗るときは二時間前までは空港に、という不文律が自分の中にあるので、とにかく焦る。ようやくアンマンの空港へ。エミレーツ組の友と別れ、一人ドーハ行きのカタール航空のカウンターへ。かなり焦っていたので、きちんと挨拶ができなくて、すごく後悔。Yさんと再会。カタール航空と交渉すべく、早めに空港に来ていたという。とりあえずドーハまでは行ける事になったが、そこから先はまた交渉を要するらしい。アンマンからドーハに飛ぶと、ひたすらサウジアラビアの上空を通り、ひたすら眼下は砂漠がこれでもかというくらいに広がっていた。ドーハの空港は、日が暮れていたにもかかわらず、むっとするほど蒸し暑かった。予約してある、ユースホステルにタクシーで向かう。かなり郊外にあった。一泊と朝食つきで30US$。これでも、カタール国内では破格の値段だと言う。一応何気にユースホステルの会員証も持っていたので、割引付だったけど。アンマンやエルサレムの宿と違って、日本人どころか宿泊客の影すら見なかった。まあ、中東産油国は、バックパッカー、特に長期旅行者には縁がない場所なのであろう。