中東日記 8 (最終回)

miyatan2007-10-24

 ようやく最終回です。以前のブログとだいぶ文章がかぶっていますが、一応一部手を加えています。最後まで読んでくださった方、コメントを下さった方、本当に感謝です。なんかそういう事を通じて、色々な人達からパワーをもらっているようで、すごく嬉しいです。

 なんか最近、特別嫌な事があったわけでも、なんでもないのに、どういうわけか気分が落ち込み気味で、かなり憂鬱なので…。季節の変わり目になると、一時期の忙しさから開放されると、真っ白な手帳のスケジュール表を見ると、預金残高を見ると、一日中事務所にこもっていると…。妙にメランコリーな日々。


9月30日(日)
 ベッド三つの部屋で一人で寝ていた。ユースホステルのはずなのに、宿泊客らしい人影は殆ど見られない。朝食付、という事で頼んだら作ってくれた。宿の人と相談した結果、荷物は預かってくれるとの事、いったん荷物を置いて街に観光に行って、戻ってくる頃にタクシーを予約してくれるとの事。とりあえず、バス乗り場を教えてくれた。ずっと乗っていれば、街中のバスターミナルに着くと言う。エメラルドグリーンの車体の綺麗なバス、最近運行を開始したばかりらしい。既に昼前であったが、乗ってくるのは殆ど出稼ぎ風の男性ばかり。地元の人には車が行き渡っているので、バスは乗らないということなのだろうか。

 ラマダン中だけど、とにかく死ぬほど暑い。湿気もかなりある。日中は、地元カタール人は外に出歩かないのかもしれない。町で見かけるのは、インド系かパキスタン系、とにかくアジア諸国から出稼ぎできたであろう男たちばかりである。バスに乗っても、バスターミナルに行っても、地元系と思われる人はいなくて、出稼ぎ風の男たちばかり見かける。さすがに石油と天然ガスで潤っている、国民平均GDPが4万ドルを越える国である。(←日本よりも高い)

 秋田県と同じくらいの面積に、佐賀県の人口と同じくらいの86万人が暮らす国。(ちなみに、秋田県は一応人口百万人を越えています) ラマダン中で、売店で買ったコカコーラ外で飲んでいたら、見つからないように隠れて飲むように注意された。それくらいイスラム教は徹底されている。例によって、黒いベールで目の周り以外を包み隠しているような女性も多かった。真っ白なアラブ服の男性も多かった。アラブ系の人は、人に仕事をさせるのが仕事、という感じであった。それくらい海外からの労働者に依存している。

 ドーハフォートという、砦がある。あまりにも街中の風景に溶け込んでいて、一応観光名所らしいが、よく地図とにらめっこをしなければわからないほどであった。現在中には入れないらしい。その周囲は、昔のアラブ風の町並みを再建した、再開発地区のような商店街。とはいっても、殆どお客の姿らしいのも見かけなければ、お店も殆ど閉まっていた。

 海沿いの道を散歩する。なんとなく、海を見るとホッとする。潮風が心地よい。海沿いの道を散歩する。途中に、2006年アジア競技大会のマスコットになった、アラビアオリックスのOrryの像があった。中東最大ともいわれるシティーセンターというショッピングセンターに行く。すぐ隣に更に豪華ホテルが建設中で、更にその周囲は、バブルを彷彿させるくらいの、一大建設ラッシュ。中東産油国は、相当好景気なのだろうか。これで、石油や天然ガスが枯渇したらこの国はどうなってしまうのだろうかと、別の意味で心配になってくる。響き渡る工事の音。燦々と照り行く太陽。とてつもないエネルギーを感じる。

 シティーセンターの中にあるスーパーマーケット、「カルフール」に入る。お土産に、ナツメヤシの実の「デーツ」を買う。その他にも緑色のアラブ風の「お祈り用即席じゅうたん」を購入。別にお祈りをするわけでもないけど、インテリア用。なんかアラブ風の模様と、大好きな緑色に触発されて購入。

 夜中、ドーハの空港から日本に帰ろうとする。なぜか、空港はインド系、パキスタン系、らしき人ばかりである。まあ、丁度デリー行きとか、イスラマバード行きとも重なっていたこともあるけど。しかも空港カウンターで、巨大なテレビなどの電化製品を預けようとする人がありえないくらい多くて、かなり待たされた。 こうして、中東に別れを告げる。


10月1日(月)
 ほぼ予定通りの時刻に、関西国際空港に到着。出会いあり、感動あり、カルチャーショックあり、色々な意味でかなり言い思いで深いいい旅だった。しばらく日本にいない間に、気持ち涼しくなってきた気もする。明日から、仕事復帰できるか、すごく不安である。

 部屋に戻って、久々にPCを開く。一通のメールが目に留まる。隣の席に一ヶ月少し前から配属されている新入社員(女性)から。

 「お土産は、首都アンマンのあんまんがいいです」

 思わず微笑んでしまった。

 (完)