越中五箇山・飛騨白川郷の旅 上

miyatan2008-05-04

 5月1日。大阪駅8:40の特急「サンダーバード7号」に乗り込む。特急列車乗るのも久しぶりな気がした。右側に座れば琵琶湖が見えるので、自由席の勿論「禁煙」車両の、右の窓側の座席を確保。指定席が取れなかったけど、何とか取れてホッとする。ちなみに富山までの北陸本線では海は全く見えない。比較的線形がいいので、スピードは出るけど。とにかくこのサンダーバード7号、早いこと。というか停車駅が少ない。大阪でてから止まるのが、新大阪、京都、福井、金沢、高岡、終点の富山、だけである。 金沢駅で、和倉温泉行きと分離する。



 高岡駅城端線に乗り換える。一両編成、非電化のローカル線なのに、座りきれないほど列車は込み合っていた。別名「常花線」とも言われるこの列車は、砺波平野のど真ん中をのどかに走る。丁度雪が完全に溶けて、これから水田に水が張られようとする時期だった。散居集落の景色が広がる。水田の中に家がぽつんと建ち、その周囲は林で囲まれている。終点の城端駅の花壇には、チューリップが満開だった。富山県はまた、チューリップの産地でも有名である。

 終点の城端駅に到着。城端線をもって、JR西日本の全路線を走破したことになる。ここから越中五箇山・飛騨白川郷行きのバスに乗り込む。一日たったの四本しかない、本当に秘境である。城端駅の辺りや五箇山も、市町村合併のお蔭で今や富山県南砺市になっている。越中五箇山の合掌造りの集落は、何箇所かに分かれている。特に大きいのは相倉集落と、菅沼集落であるが、今回は菅沼集落を訪問することにした。



 菅沼のバス停で降りる。ちょっと国道から裏道に入ると、合掌造りの集落に程なく着く。集落、といっても本当に谷間の狭い土地に家が数軒並ぶだけの質素なものである。現存する合掌造りの家が九件並ぶ。そのうちの二軒は既に空き家になっていて、博物館になっている。忘れかけたような、日本の「ふるさと」を彷彿させる光景である。

 今でこそ南砺市になっているが、かつてはこのあたりは「平村」、「上平村」という地名であり、なんとも源平合戦で敗れた平家の落ち武者が住み着いたところから、その地名が生まれたとか。平家の落ち武者伝説は日本各地にあるので、どこまで信憑性があることだろうか、と思う反面、地名に残っていることと、倶利伽羅の合戦の倶梨伽羅峠からあまり離れていない辺りから意外と本当かもしれない。



 江戸時代は加賀百万石の加賀藩支配下に置かれたという。それこそ、前田利家の世界である。五箇山白川郷も、かなり奥地であったことから、煙硝の産地となっていた。要するに火薬である。草とか、蚕の糞を合掌造りの家の下で熟成して、作られるらしい、あまり化学記号とかわからないのでよくわからないけど。出来た煙硝は、険しい峠道を越えて金沢まで運ばれていたらしい。



 合掌造りは、当時の時代のニーズにこたえた、よくできた住居である、と色々と説明を聞いて感じた。屋根の傾斜角は、60℃。理由はおよそ想像がつくと思うが、日本屈指の豪雪地帯で、屋根に降り積もった雪を下に落とす為である。家の周りには水路が張り巡らされているが、これは少しでも屋根から落とした雪が解け易くする為の工夫である。その水路には鯉が住んでいる。決して食用にするためではなく、どうも鯉がすんでいると、水を浄化してくれるかららしい。

 家の柱が太いのは、雪の重みに耐えられるようにする為だそうである。そして各家には「囲炉裏」があり、囲炉裏を覆うように屋根のようなものがある。それは囲炉裏で発生する灰が飛び散らないようにするためである。

 屋根の傾斜が急なのは、降雪のシーズンでも作業場を確保するためでもある。上の階では、蚕を飼っている。勿論生糸を作るためであるが、それだけではなく、草や蚕の糞、囲炉裏で発生する灰を使って、家の軒下で煙硝を作るためでもある。ただやはり、冬場は寒いようである。法律上、規制がかかっていて外観を変えることは出来なくなっているが、内装はある程度変更可能らしい。

 「こきりこ」を演奏させてくれた。富山県民謡「こきりこ節」のこきりこである。曲自体はかなり有名なので、たぶんどこかで耳にしたことはあると思う。でも最近まで、「こきり こぶし」だと思っていた。



 意外とこじんまりとしていた印象。たまたま立ち寄った茶店のおじさんが言うには、白川郷はあまりに観光客が増えすぎたので、白川郷から五箇山に抜けてきた人は、こっちの方がホッとする、というらしい。何気に東海北陸自動車道、という高速道路が近くまで通っている。この夏についに全通するらしい。

 夕方になると、かえるの鳴き声が辺り中に響き渡る。まさに「カエルの大合唱」である。夕方のバスで、飛騨白川郷に向かう。(下に続く)